1863年5月30日( 旧暦 文久3年4月13日) 清河八郎の命日(2019-05-30)



1863年5月30日は清河八郎が暗殺をされた日です。

清河八郎といえば、新選組・新徴組の前身である浪士組を結成した人物である。

1830年、現在の山形県東田川郡庄内町に生まれる。

幼少時代は割愛するが、

1847年、江戸に出てからの清河八郎は凄まじいの一言に尽きる。

剣は北進一刀流の免許皆伝、学問は昌平黌に学んでいた。

今風に言うならば、


国士舘大学の剣道部に所属し、なおかつレギュラーであるほどの腕前であったうえで、東京大学に在籍しているようなものである。


その後、清河塾を開設。

当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであったそうだ。

ちなみに当時の江戸の人口は60万~100万人、武士階級だけでも2万人弱である。

清河八郎が並外れて、傑物だったのか、それとも二つをやるのは効率が悪くて誰もやろうとしなかったのか……

真相は歴史の闇の中である為、どちらを選ぶかは読者にお任せをする。


さて、時は変わって1860年、桜田門外の変が起きる

清河はこの事件に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強める。

そういった意志の変化からか、清河塾には、そうした憂国の志士達が集まり出す。

その中には、幕臣である山岡鉄太朗もいたというのだから驚きだ

そうした志士達の盟主として、清河は『虎尾の会』を結成する。

虎尾の会は、横浜外国人居留地を焼き討ちし、

尊王攘夷の精神を鼓舞し、遂には倒幕の計画を立てるに至るが、この計画が幕府の知るところとなる。

そのことに文句を言ってきた者を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となった。

このとき、メンバーの三名が捕縛され、後に獄死している。

時は1861年のことである……結成してから一年弱の話だ。正直やり過ぎだろうと思うのは私だけだろうか。


さて、逃亡した清河のその後というと、京都に潜伏したり、九州地方で遊説したりと、お尋ね者の割には、充実した生活を送っていた。

そして二年後の1863年、清河は山岡鉄舟を通して、幕府に『急務三策』を上申をする。

急務三策を要約して説明すると、


・外人を追い払います。
・追い払う為に浪士を集めるます。集まった浪士の過去の罪は帳消しにします。
・文武に秀でた者を重用します。


いささか、虫の良い話かも知れないが、その要望を幕府は全て飲んだ。

その背景には、幕府も巷に溢れる浪士に手を焼いていた。

彼ら浪士の中には、天誅と称して、幕府の役人を暗殺したり、

軍用金と言う名目で、商家を襲ったりと、とかく倒幕を名目に治安を乱していた。

それならば、彼らを一箇所に集めて手綱握り、佐幕派浪士集団を作り上げてしまおう、

という考えがあった説もある。

またおりしも、黒船来航による国家非常事態の為、天皇に拝謁をし攘夷を誓う為に、

第十四代将軍、徳川家茂の上洛が計画されていた。

その為の京都の安全を確保したいという考えもあったそうだ。


さて、そんな考えのもと集められた浪士達は234名にものぼり、彼らは浪士組と名付けられ、

1863年2月8日、江戸から京都へ向けて出発をした。

余談ではあるが、集まった浪士達の中に後の新選組を作った、近藤勇達もいる。

15日後の2月23日、京都に到着。


さて、ここで、将軍の上洛に備えての治安活動をするのかと思いきや、もともと清河は攘夷・倒幕論者である。

彼と、元虎尾の会のメンバー達は、浪士組を幕府から切り離し、朝廷側に着こうと画策、

また集まった浪士達にも、第一目的は攘夷であり、将軍の警護は二の次だと説明し丸め込む。

これに異を唱えたのが、後に新選組を結成する近藤達を含めた十数名である。


だが、清河に賛同をする者は200名近くおり、画策が実り朝廷からも賛同を得ることとなった。


もちろん、そんな清河の行動に危惧を抱くのは当たり前の事であり、幕府により江戸に呼び戻され、

1863年4月13日、清河は麻布一橋で佐々木 只三郎、以下六名の幕臣に斬り殺された。享年33歳。

また清河の死後、彼の同志達も次々と捕縛され、浪士組は組織目的を失った。

そして幕府は浪士組に『新徴組』と名付け、江戸市中の取締役に着かせることとした。


三十三歳という若さでこの世を去った清河八郎であるが、彼のやった行いを辿っていくと、

稀代の詐欺師と見るか、憂国の快男児と見るか、意見が分かれる難しい所である。

どちらにしても、ここまでの人物ならば、知名度も高いと思いきや、その知名度は限りなく低い。


坂本龍馬を筆頭とした志士側の物語においては脇役扱いである

だからと言って、新選組を筆頭とした幕府側の物語においては狂言回し的な扱いである。

この扱いの酷さはなんなのだろうか……

最後に、清河八郎は山形県庄内町の清河神社に祭神として祀られているぞ。

口べたな人はお参りに行くと良いかもしれないな。

ですが、熱海から山形は遠いので、ここで関東商事の名前を連呼するしかありません。

清河八郎のように埋没しない為にも、関東商事の宣伝を!

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